防災・減災への指針 一人一話

2013年11月14日
安否確認と個人情報の壁
多賀城市 八幡上一区長
今野 英廣さん

給水方法や自宅避難者の問題

(聞き手)
 発災時の行動について教えてください。

(今野様)
私の住む八幡地区は5つの区に分かれていて、それぞれに地区集会所がありますが、私の地区にある八幡公民館は、このあたりで一番の高台で、建物も大きいため、避難所になっています。
私は、そこの館長なので、何かあった時には、鍵を開けなければならない重要な役目を担っています。
地震発生時、私は自宅にいました。激しく揺れて、これは只事ではないと思いました。その時、私の妻は買い物に出ていて、なかなか帰ってこないので心配していました。
ラジオを聞くと、妻がいる地区が大変なことになっているとわかり、車が渋滞しているということを耳にしました。
ですが、館長として鍵を開けなければと思い、外に出たところ、妻が帰って来たので、私はそのまま鍵を持って公民館へ向かいました。
公民館にはまだ誰も来ていませんでしたが、私は戸を全部開け、誰が避難しに来てもいいように準備をしていました。
ほどなくして住民の方たちが来ましたが、今までにない地震だったので、皆さん恐怖に怯えていたように思います。

(聞き手)
その後はずっと公民館の方に居たのでしょうか。

(今野様)
はい。家には帰らずに、ストーブに火を点け、いろいろな準備をしました。偶然にも、地震の直前に、公民館の耐震工事がほぼ完了していたため、幸いにも、八幡公民館の建物に被害はありませんでした。

(聞き手)
そこには何人ぐらいの方が避難されたのですか。

(今野様)
多い時で、200人以上の方々が避難されたかと思います。公民館は大きいですから、人の出入りが頻繁にありました。

(聞き手)
避難所での自治会長という立場でのお仕事には、どのようなものがありましたか。

(今野様)
市職員の方と一緒になって、避難された方々にいろいろな手助けをしました。
例えば、病人の世話や物資の配布、炊き出しなど、あらゆることをしました。

(聞き手)
その中で何か苦労された点や今後の課題といったことはありますか。

(今野様)
給水ポイントが八幡公民館になっていたのですが、なかなか公民館まで足を運べない方もいるので、給水ポイントを、その他にも何カ所か設けてほしいという声がありました。
また、物資は避難した人たちには届くのですが、自宅に残っている人達には届きにくいといった問題がありました。
それから、夜に泥棒が入ることがあると消防団の方から話があり、夜回りをしました。真っ暗な中を懐中電灯だけで、5~6人と巡回したのですが、車が重なっていたり、歩く所もなかったり、その時の光景といったら凄かったです。

避難所の活動を支えた地域の絆

(聞き手)
そういったご経験をされて、今後の課題というのはどのようなことだと思いますか。

(今野様)
やはり、地域の防犯対策もしっかりとしていかなければならないということです。避難所を解散するまでの約1カ月間、八幡5区の区長さんたちは毎日9時に集まって、いろいろな情報をお互いに提供し合っていました。

(聞き手)
 震災後の地域のコミュニティ活動について教えて頂けますか。

(今野様)
震災後、他の地区では、いろいろな夏祭りなども中止にせざるをえなかったようですが、私の地区では敬老会も夏祭りもしました。
今までしていた事は、なるべく実行していこうということで総会も行いました。

(聞き手)
震災前と比べて、皆さんのつながりなどはどうですか。

(今野様)
以前よりはが深まったという感じを受けます。
やはり人は一人で生きていくのは大変なので、人との支えや繋がりといった協力があってこそ、行動出来るのだということを感じました。

(聞き手)
お祭りなどは、八幡5区全体で行うのですか。

(今野様)
区ごとに行います。もちろん、震災の年は、中止を決めた区もありましたが、八幡上一区では実施しました。

(聞き手)
 東日本大震災前には、どのような備えや対策をしていましたか。

(今野様)
自分では、リュックザックに物を入れておいたり、乾パンなどの食糧を備えたりといった、ある程度のことはしていました。
他にも、避難訓練をするなど、やはり最低限のことはしていました。
多賀城市では5年に1度(※注 震災後は毎年の開催となっています)大規模の防災訓練もありますし、そういった時は、積極的に参加していました。

(聞き手)
平成25年11月4日の防災訓練も参加しましたか。

(今野様)
はい。ただ、雨でしたので、少し計画通りには出来ない所もありましたが、逃げること、避難することを第一に頭に置いて、地域の皆さんをまとめていました。

(聞き手)
その訓練には区民の方は何人くらい参加したのでしょうか。

(今野様)
170人ぐらいと聞きました。

(聞き手)
多賀城市の居住歴はどれくらいですか。また、区長さんになられてからはどれくらいになりますか。

(今野様)
私は昭和44年から住んでいます。区長になってからは16年です。私が区長となった時には、それまでで一番若い区長だと言われました。

(聞き手)
この地域の年齢構成と、地元の人はどれくらいの割合なのか教えて頂けますか。

(今野様)
元から住んでいる方は少なくて、7対3だと思います。3割の方が元から住んでいる方です。若い人というよりは、新しく来た人が多いという感じです。多賀城市全体を見てもそのように把握しています。

(聞き手)
チリ津波や宮城県沖地震など他の災害や、水害などは経験されていますか。また、その時の経験で今回の地震に活かされた事はありますか。

(今野様)
宮城県沖地震は経験していますが、規模が全然違うのであまり活かされたものはなかったと思います。

(聞き手)
避難所生活を振り返っていかがでしたか。

(今野様)
多賀城は、いろいろな所に避難所があったので、1カ月ほど過ぎて少し落ち着いた頃には、皆さんは他の避難所に散らばっていました。
私は、自分の地区の人たちが避難していないか、どれぐらいの方が避難しているのか気になり、安否確認のため一番大きな多賀城文化センターや山王地区公民館、多賀城市体育館などへ出向きました。いろいろな避難所を歩いて回りましたが、皆さん喜んでくれました。中には涙をこぼして喜んでくれた方もいました。無事が確認され、感動し、うれしかったです。

防災意識と役職の使命感

(聞き手)
災害の教訓などで、思い浮かぶ伝承はありますか。

(今野様)
親や他の代から聞かされてきた伝承というものは特段ないとは思いますが、よく多賀城は「災害の多いまちだ」と言われていました。
私は、区長と同じくらい公民館長の経験も長いので、何かあった時は、必ずすぐに鍵を持って集会所を開けなければならないという使命を感じています。
ですので、立場上、情報にはなるべく耳を傾けているつもりです。

(聞き手)
当時、津波が来るという情報はいつ得ましたか。

(今野様)
公民館でずっと色々な仕事や手助けをしていましたので、津波がいつ来たのかはあまりわかりませんでしたが、だいたい地震の1時間後ぐらいに来たと聞きました。
夕方頃、一旦、家に戻った時には既に道路に水が溢れていましたが、それが潮水だったので、津波の水だったのでしょう。
そして、公民館のすぐ下のお寺から通じている道路を隔てて、自宅裏の窓から家の者を呼び、衣類を取って再び戻りました。
自分の地区の住民の人たちが避難して来ているものですから、まさかその方たちを置いて私だけ家にはいられないという気持ちがあったのと、民生委員という立場から、戻るに戻れない状態で、ずっと避難所に居ました。

(聞き手)
民生委員もされているのですか。

(今野様)
はい、民生委員を20年近くしています。

(聞き手)
何をきっかけに民生委員になられたのですか。

(今野様)
自分の生活の中で、何か人に役立つものが自分に与えられるならば、進んでしてみたいという気持ちはもともと持っていました。
ちょうど20年前に、市で、主任児童委員というものが設置されました。不登校など子どもたちの非行が多かった時で、声掛けや、見回りなどをしていました。制度が出来た当時、私は厚生労働省から委嘱され、代表で研修に行ってきました。東京の浜松町へ、職員宿舎に泊まりながら研修先の会場へ電車で1時間かけて通い、3日間勉強しました。それをレポートにまとめ、勉強したことを皆さんの前で報告したのを覚えています。
初めての制度を知らない土地で学ぶ研修でしたので、大変苦労しました。

共助の大切さ

(聞き手)
震災を経験した区長さんとして、何か次の世代へ伝えていきたいことはありますか。

(今野様)
やはり、人のために役立つような行動をして頂きたいと思います。困った人には手を差し伸べたり、自分の出来る範囲で出来ることをしてほしいです。
今回、地震が起きて、色々な場面を見て、毎日を平凡に過ごせる事、そして自分が生きている今が一番の幸せなのではないかと改めて実感しました。
私は、小さい時からそういう仕事に携わってみたいという希望や夢があったので、長い間いろいろな事をこなして来られたのかなと思います。
そして、やはり、人は字のごとく自分一人では生きられないので、支え合いや助け合いが大切だと思います。これはいつも家族にも言っていることですが、皆さんや、これからの子どもたちにも伝えていきたいと思います。

(聞き手)
そういったことを子どもたちに教訓として伝えて行きたいということですか。

(今野様)
はい。私は子どもが大好きなものですから、子どもたちのためにPTAの役員も長らく10年ほどしましたし、会長職もしました。子ども会育成会も20年近くやりました。ただ、それも好きでなければ出来ません。私の経験がそれを物語っていると自負しています。体を動かすことが大好きなのです。

(聞き手)
 多賀城市の今後の復旧・復興に向けてのお考えがありましたらお聞かせください。

(今野様)
やはり、市民の声によく耳を傾けて少しでも市が繁栄して頂けるようにしていく事と、今回の震災を教訓にして、行政と私たち住民とが協力し、一体となって対策をしていかなければならないと思います。

(聞き手)
復興は進んでいると感じますか。

(今野様)
復興の方は進んでいるのではないかと思います。その方々によっての捉え方も違うとは思うのですが、多賀城は進んでいる方ではないでしょうか。市外の様々な市町村から職員の方やボランティアの方が応援に来てくださり、私の地区も本当に助けられました。大掃除などもして頂き、本当に感謝しています。ありがたかったです。

安否確認と個人情報の問題

(聞き手)
 何かこれだけは言っておきたいことがございましたら、お願いいたします。

(今野様)
子どもたちに対しては、やはり成長していく段階で人の支えになるような人間になってもらいたいと強く願っています。そのためには自分も同じ心で子どもたちと接していきたいと思います。
そして、多くの人との交流を深めながら成長し、震災があった時には声を掛け合って助け合うような地域の環境を整えていきたいです。
今はどうしても近隣の関係が希薄になっているように感じます。自分が手本となり、働き掛けて、常日頃の挨拶から心掛けていきたいと思います。

(聞き手)
今回の事で、区長として印象に残っている事はありますか。

(今野様)
私は立場上、先頭に立って指示しなければならない使命があります。ただ、私自身も被災し、家も水害に遭いましたから、自分の家に何も手を掛けられなかったという部分で辛さはありました。
もしも、自分が家にいたならば、もっと被害を最小限に留められたのではないかという事も考えます。
しかし、それはどうにも出来ない事でもあります。

(聞き手)
今後、若い人にはどういった事を伝えていきたいですか。

(今野様)
皆さん、自分自身の生活も、とても大変だと思うのですが、出来る範囲でかまわないので、地域活動に手を貸して頂ければとは思います。

(聞き手)
この地区には何世帯くらいの方がいらっしゃるのですか。

(今野様)
おおよそですが、当時は560世帯あったと思います。震災後は450ぐらいになり、100世帯ほど減少しています。まさか1世帯1人ということもないでしょうから、約300人の方がいなくなったという風に捉えています。しかし、皆さんなかなか戻って来られてはいないようです。

(聞き手)
民生委員として、個人情報の問題があって、活動も大変なのではないでしょうか。

(今野様)
はい。各避難所へ行っても、確認するまで苦労しました。
各避難所は、いくら区長や民生委員であると言っても、詳細な個人情報は教えてくれません。
住所も、何丁目までは教えてくれるのですが、何番地や名前までは出てこないのです。
台帳を見て窓口で調べて、あとは自分の足で確認して歩いたというのが実情です。
そのように安否確認をしながら訪問させて頂きました。
そうして皆さんの事を考えて四六時中動いていました。